コボレ恥之介と 石の下でさざめく記事たち

元・マンガ家志望。小説・映画・漫画の感想や表現技法の勉強、自作品の批評など。僕がアウトプットするためのブログです。

『カラマーゾフの兄弟1』(ドストエフスキー、訳:亀山郁夫さん、光文社古典新訳文庫)

ドミートリーの苦しみが伝わってきた。
ドミートリーみたいな奴は太くて長い針がびっしり生えた穴の中に捨てて転げまわしてやってもいいと思う。でもドミートリーの苦しさがひしひし伝わってきた。ドミートリーは愚かだが、彼は幸か不幸か、自分の愚かさを理解している。ドミートリーのような輩は断頭台送りにしていいと思う。ドミートリーもそれを望んでいるように思う。
「こんな奴クソだ、シんじまえ」なんてドミートリーに言える人間でありたかった。こういう人間の中に自分に似たものを見いだす人間にはなりたくなかった。僕も胸にそういうものをぶら下げている人間なんだと思う。ドミートリーが僕の分身に思えてならない。ドミートリーの内側の怯えや苦痛は僕にも身に覚えがあるもののように思った。ただ僕はドミートリーとは違って行動的ではない。胸の奥底に閉じこめて苦しんだり、ときどき創作物の中にその浅ましい欲望の欠片を入れこんで、どうにかしている。どうにかなっているかは怪しいが。
読んでてしんどかった。それなのに読むのをやめられなかった。太宰治の『人間失格』を読んだときも同じふうに思った。あの本も苦しい苦しいと思いながら読んだ。自分の正体が書かれた本は苦しい。心臓が潰されそうだ。
自己嫌悪やら自己憐憫やら自己愛やらに苛まれる話だった。
正直今回はあまりネタバレを見ずに読んでいるので、もしかしたらドミートリーのこういう要素はおまけていどかもしれない。でも僕は1巻を読んだ範囲だと、こういうふうに感じた。

 

f:id:nnaboraababa:20210803072035j:image