コボレ恥之介と 石の下でさざめく記事たち

元・マンガ家志望。小説・映画・漫画の感想や表現技法の勉強、自作品の批評など。僕がアウトプットするためのブログです。

言葉にできない「好き」など存在するのか?

本当はそこまで好きじゃないから、感想を上手く言えないんじゃないのか?

 

 

 

 

 

 

ブログで好きな作品について語らせていただくようになってから、ひとつ悲しくなったことがある。

昔から好きだった作品ほど、「どこがどう好きだったか」を言葉にできないということだ。

 


もちろん長く愛してきたからこそ、好きの形がその都度変わったり、好きな要素が多岐に渡ったりするのはあると思う。
だったら喋りやすい部分を拾い出して、まずはそこを語るところから始めればいいじゃないか。
たったひとコマでも。たったひとつのセリフでも。

 

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好きな表情ならどこがどう好きなのかとか。
つり目だから好きとか脚が綺麗だから好きだとかでも構わない。どのシーンでその鋭い眼差しは一番映えていたのだろうとか、どのページのどんなポーズがその脚の麗しさを引き立てていただとか。


そういうのを描けばいいではないか。
最初から作品の総括を書こうとしてしまっていないだろうか?

 

 

しかしながら、それを考慮した上でも、どうしても言葉として出てきてくれないのだ。
頭の中にあるモヤモヤとした「好き」の雲が、掴もうと手を伸ばした途端するりと指の隙間から逃げ出してしまう。

 

 

 

本当に好きだったのか?
そのキャラクターは、そのシーンは、そのセリフは、その世界観は、その絵柄は、本当に僕に刺さっていたのか?

ただお金を出して買ってしまったものだから、損をしないために「好き」をねつ造したんじゃないか?
激しい光の明滅で脳が催眠状態に陥っていただけなんじゃないか?
僕の中にある感情は、本当はまやかしなんじゃなかろうか?

 

いや、違う。
きっと違う。
あのキャラクターの鋭い眼差しを記憶の引き出しから取り出すと、今も胸が踊る。
あの子の脚の躍動をもう一度見ると、やっぱり美しいなと見入ってしまう。
立ち止まったときにあのマンガのセリフが背中をそっと押してくれる。

言語化が追いつかないだけで、感動はたしかにここに存在しているのだ。

 

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何故言葉にできないか?
きっと僕の語彙力不足だろう。

 

 

 


だからまずは言葉にできる「好き」から、狭くて小さな心の隙間から解放して大空に飛び出させてあげよう

 

 

 

僕は僕の中の「好き」をすべてこの場所に記したいという野望がある

あの作品から、あのキャラクターから、あのセリフから、感動を与えられた人間がたしかに存在していたと、海の端で声高らかに叫びたい。
嫌いを言葉にする力より、好きを言葉にする力がほしい

 

 

 


だから僕は、今日も書く。