コボレ恥之介と 石の下でさざめく記事たち

元・マンガ家志望。小説・映画・漫画の感想や表現技法の勉強、自作品の批評など。僕がアウトプットするためのブログです。

恋をしたいのか、僕は? 『愛に似たもの』感想

 

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クリスマス前に、自分に恋人がいないことを省みるという恒例行事が、この国には存在するらしい。


僕は今まで気づかなかったが、今年はその存在に気がついた。

別にそれで行事に参加した訳ではなかった。「あのときこうしていれば、自分にも恋人が」なんて考えたりはしなかった。だがしかし、「何故自分はその通過儀礼を執り行わないのだろうか」ということは考えた。


つまるところ。僕は、恋人がいないことを反省したりはしなかった。だが、「恋人がいないことを反省しない自分」を「反省」はした。

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実は先日まで母が入院していた。胆石である。3週間ほど病院に滞在し、手術をし、現在は元気に過ごせている。屈んだときに少し傷口は傷むそうだが、逆に言えばそのていど。
母が入院している間、僕や父や祖母がお見舞いに行き、母の洗濯物を持ち帰ったり、また逆に時間つぶし用の小説を届けたりした。
家族とはいいものであると僕は思った。

 


だがそれと同時に――僕が独り身のままで大人になったらどうなるのだろうと心配にもなった。


苦しんでいるときに背中をさすってくれる者もいない。反対にただ待つだけの時間のときにも、暇つぶし用の小説を届けてくれる人もいない。
将来が怖い。孤独が怖い。途方もない暗闇に独りで投げ出されてしまうことが恐ろしい。
僕は臆病なのだ。弱いのだ。そして、とてつもなく寂しがりなのだ。
とても嬉しいことに、僕に構ってくれる友人が僕にはいる。しかし友人らがいつまでも僕の世話をしてくれると思うのはいかがなものかとも思う。それぞれの人生があり、それぞれの都合がある。親だって、年齢で言えば僕より先に別の場所へ行ってしまうことになる。
そうなったとき、果たして僕は独りでも生きられるのだろうか。

 

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いざというときのために、誰かと契約を結んでおきたいと思う。有事の際、一番に相手を助けようと言う契約だ。それはきっと友人同士でも締結できるものだろう。だがその契約の中で、最もメジャーなのが「結婚」というものである。
だがしかし、その動機……。どうなのだろう。

僕が本当にほしいのは、恋人でも結婚相手でもなく、良質な介護用品や入院保険なのではなかろうか。

 

その願望を果たす先は、結婚の他にないのだろうか?

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最近拝読した短編集『愛に似たもの』唯川恵さん、集英社文庫に収録された『帰郷』という話に、気になる描写があった。


この話は、ある女性が、病院で入院した母親を見舞いに訪れるという話である。その女性に対し、看護師がこんな言葉をかけるのだ。
田所さんの奥さん、ほんと、お幸せよねえ。入院されたときから、いつも必ず誰かがそばについていらっしゃるでしょう。ご主人か、息子さんか、息子さんのお嫁さんか。もちろん、お孫さんも一緒に。それで、こうして東京からわざわざお嬢さんも来てくれてるんだもの。やっぱりイザという時、そばにたくさんの人がいてくれるっていうのは、幸せだって思うのよ

 


もちろんきっと、「イザというとき傍にいる人」が家族だけとは限らないだろう。それを分かった上で作者はこのセリフの中で「家族が」という括り方はしていない。しかしながら例として挙げている関係性が全て家族であることを考えると、やはり「イザというとき傍にいる人」の代表格は家族に他ならないのだろう。


僕は臆病だ。そしてとても寂しがり屋だ。
有事の際、恐怖を払拭してくれる人が傍にいなかったらどうしよう。そう考えるとあまりに恐ろしくて夜もおちおち眠れやしない。
独りでもどうにかできるほど強くなればよいのかもしれないが、今の矮小な僕がそうなれる日はいつ訪れるというのだろうか。100年後? 300年後?



まだ目の前に訪れていない災厄。起こり得ないかもしれない事態。
今の僕は、そんなものにばかり苛まれている。

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とはいえ、恐怖にせっつかれて結婚だの恋愛だのに走ることが正しいとは思えない。


同短編集の収録作『選択』がそれをよく表している。
「賢い選択」のつもりで結婚した男性は、ヒロインにとって「外れ」であった。だから彼女は昔の恋人とよりを戻そうとする。しかしその恋人も実は怪しい仕事に手を出していた……という話である。
このヒロインはどうすればよかったのだろうか。その結末は、悔しいことに読者に委ねられてしまっている。

 

結局のところ。じゃあ僕はどうすればいいんだろう。
そんな答えは書いていないのがこの短編集だ。まったく、愛の足りない本である。まさに「愛に似たもの」と呼ぶにふさわしい。「答え」に突っぱねられる厳しさを覚えるのは登場人物だけでなく読者もであったのだ。その冷淡さも心地よかったりもするのだが。
ただ一応。解説を担当なさった橋本紀子さんからは、この方なりの解釈をいただけた。
『ただ「幸せ」になりためにがんばってきた』登場人物たちに対し、橋本さんは『「正しく」なんかなくていい、もっといえば「幸せ」じゃなくたっていいじゃないの』という言葉を贈っている。『カッコつきでない幸せへの小さな小さな「一歩」』を踏み出せばよいとのことであった。



そうなのだ。「幸せ」でなくていいのだ。


僕は今、この場所を生きることしかできない。
僕の知らない僕が、どうなろうとも本当は関係のないことなのだ。
僕はいつか来るかもしれない魔王の使いなどに怯えたって構わないのだ。
それは僕に深々と爪を突き立てるかもしれないし、炎で僕の表皮を焼き尽くしてしまうのかもしれない。
そんなことも知らずに僕は、今呑気に笑い転げていても問題ないのだ。

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僕はクリスマス前、「恋人がいないこと」を反省しなかった。
けれどその時間を使って、僕は小説を書いた。平均4,500字くらいの作品を、一か月で10作書いた。
今の僕にとってはその45,000字のほうが遥かに大事なものなのだ。

 

 


僕はきっと今、未来の自分からの救いの声を無下にし続けているのだろう。


知ったことか。僕にお前への愛はない。
その代わり、「愛に似たもの」を向けてやる。お前のそのうるせぇ口にねじこんでやる。
苦いか? そうだろうなぁ。

 

僕はそういう輩さ。残念だったな、ハーハハハッ!

 

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〜後日談〜


この文章を書いたのは12月末ごろですが、この後母は退院してすこぶる元気になり、一方の僕はシェイクスピアにどハマりし、自分の恋愛とやらが、なおさらクソどうでもよくなりました。

そんなもんでした。

 

 


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*『愛に似たもの』詳細(出版社公式サイト)→【https://search.yahoo.co.jp/amp/s/books.shueisha.co.jp/items/contents_amp.html%3Fisbn%3D978-4-08-746486-3%26usqp%3Dmq331AQOKAGYAZTZ0YaiqKHjjQE%253D

 

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